とあるスラム街に一輪の花が咲いていた。
スラム街の人びとはその一輪の花に夢中になった。
ある人は、なんてきれいな花なんだと毎日毎日つぶやいた。
また別の者は、その一輪の花は自分が守ると主張し続けた。
またある者は、一輪の花をまじまじと見つめては、にやにやと笑った。
彼女に水をやる人間は誰もいなかった。
それでも彼女はいつも微笑みを絶やすことなく咲き誇っていた。
彼女はすべての人びとに平等であった。
そんなスラム街に女と男がやってきた。
女は思った。
このスラム街ではおもしろいショーがおこなわれている。
スラム街の人びとはどうあがいても一生手に入れられないであろう一輪の花に夢中だ。
ときどき観に行って笑いの種にしよう。
男は思った。
この一輪の花に水をやる人間はいないのか。
なぜだれも水をやらないのか。
水をやるべきだと誰も思わないのか。
女は一輪の花に夢中になるスラム街の人びとをまじまじと見ながら、この花が自分にこそふさわしいものであるといつかひけらかしてやろうと考えた。
男は一輪の花に水をやるべきだとスラム街の人びとに説いてまわった。
スラム街の人びとは一輪の花に惚れ惚れとし、過去のつらいことや悲しいことをすべて忘れたようにぼんやりとしていた。
彼女はいつもと変わらぬ微笑みを絶やさず咲き誇っていた。
彼女はすべての人に平等であった。
女はスラム街の人びとをあざ笑い続けた。
男は水をやるべきだという考えに固執して躍起になっていた。
あるとき、一輪の花の花びらが一枚破れてしまった。
わずかな切り傷を抱えながらも彼女はいつもと変わらぬ微笑みを絶やさず、咲き誇っていた。
スラム街のとある住人が言った。
わたしがその傷を治してやろう。
だからその傷口をわたしにしっかりと見せなさい。
その住人にその傷を治す技量はなかった。
スラム街のとある住人が言った。
その傷をもっともっと近くで見たい。
美しい一輪の花の生々しい傷口はわたしに恍惚を与える。
それを聞いたスラム街の人びとは怒りをあらわにした。
一輪の花よ。
きみに傷があろうがなかろうがきみは美しい。
昨日と変わらずぼくは君を愛するだろう。
一輪の花よ。
きみのことはぼくが守る。
ぼくはきみのことを絶対に傷つけない。
一輪の花よ。
君の傷ですらぼくは美しいと思う。
でも君がその傷を痛いと思うのならば早く治ってほしいと願う。
男はいつにも増して躍起になった。
この一輪の花を守ろうではないか。
誰か彼女に水をやってはくれないか。
どうか水を持ってきてくれ。
一部始終を見ていた女は気分を害した。
いつものショータイムが台無しだ。
彼女に水をやるべきだという正義感はこのショータイムにはふさわしくない。
スラム街の人びとが一輪の花に狂喜乱舞しているショータイムをわたしに返してほしい。
女は自分の楽しみを奪った男を激しく叱責した。
男の正義感は偽物だ。
男は水をやるべきだのなんだのとうるさい。
男は自分の正義感でこのスラム街を染めようとしている。
気に食わない。
男は女を睨みながらスラム街を去った。
自分の正義が実現しなかったからである。
今日もスラム街の人びとは自分の生活を忘れ、人生を投げ出し、一輪の花に夢中である。
彼女はいつもと変わらぬ微笑みを絶やさず咲き誇っていた。
彼女はすべての人に平等であった。
そして。
天の恵みもまたすべての人に平等であった。
一輪の花は天の恵みを与えられ、いつもと変わらぬ微笑みを絶やさず咲き誇っていた。
彼女に水をやる必要はなかったのである。